上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- -- l スポンサー広告 l top ▲
 伊坂幸太郎のモダンタイムズを読み終えた(実は結構前に)。作中で繰り返されているのが、何か悪いことがあったとしても、「『その人が消滅したら、物事が解決する』と言い切れるようなそんな個人はどこにもいない」、「分かりやすい悪者はどこにもいない」ということ。 

 はからずも、東日本大震災後の日本社会は、それを分かりやすく示す事例になっているように思える。利権とか、黒幕とか言っても、そこに明確な悪人など存在しえないのである。「図式のはっきりした勧善懲悪は、作り話でしか成り立ちえない」とはよく言ったものである。

 また、もうひとつ印象深かったのが、「人生は要約できない」という登場人物の言葉。ライフストーリー法を専門とする自分にとっては色々と考えさせられる言葉である

 もっとも、(ライフストーリーに限らずどんな調査でも)”要約”抜きで分析を行うことは不可能であり、情報の取捨選択は絶対に必要。そこで、どれだけ”要約”と”多くの情報”を両立させられることができるのか。矛盾していることだが、追求しつづけなければならないのか。
スポンサーサイト
2012.05.28 Mon l 感想-読書 l COM(0) TB(0) l top ▲
真山仁『マグマ』読了。外資系企業に勤める女性がとある事情がから、地熱発電事業に参加することになり、その過程で原発や地熱発電をめぐる利権問題が暴かれていくという作品。結果としては、地熱発電事業は大きく前進し、一応の大団円という感じ。

が、最終局面で実は主人公は親会社から特別扱いを受けており、背後の政治的状況がたまたま地熱発電開発を後押ししたと背景が明らかになる。結果として、エネルギー情勢が国内の政治上に左右されまくっているという暗澹たる情景も同時に描き出されている。

端的な感想としては、日本のエネルギー事情の政治的背景というものをエンタテイメントの形で示している作品として、非常に楽しませてもらった。内容もタイムリーだし。(もちろん、小説ということであえて一方的な視点から論じている部分もあるかもしれないが)

最後にいくつか、印象に残ったフレーズを→“では翻ってこの国はどうか。大枚をドブに捨ててでも、子孫のため、地球のために便利さに背を向ける選択をする勇気を持つ人間がどれくらいいるのか。”(真山 2008:165)まあ、ベタな感じですが。なんか実感わく。

“条文に具体性がないために、政治的な思惑ひとつで基準がいかようにでも変化する。それが、日本の法律の“常識”だった(ibid 2008:182)。→まさに表現規制の問題とも関連する。

それにしても、産業小説は世間知らず気味の自分には、ちとヘビーである。あ、最後にこの小説では文学がちょっとディスられてました。毒にも薬にもならんとか言われていた。
2011.08.15 Mon l 感想-読書 l COM(0) TB(0) l top ▲
宇野常寛の「ゼロ年代の想像力」読了。本当はもう1回読みたいけど、他にやる仕事も多いので、現時点での感想でもメモっておく。とりあえず雑感としては→ジャンル横断的に色々知っているのはすごい、時代状況についての記述にはまあ納得、論点が多すぎでわかりにくい という感じ。

興味深かった点としては、(実証できるかは難しいけど)、1995年以前のアイデンティティは~する/~しないに依拠していたけど、それ以降は~である/でない ということに依拠するようになったという指摘。

そして、90年代後半は、社会的価値観があやふやな中で、”ひきこもる”という想像力が存在していたのが、00年代に入りサヴァイブ感にもとづく、バトルロワイヤル系の想像力に変わったという点。

この点を宇野氏はさまざまなメディアを横断しながら包括的に批評を行っている。この点はお見事という感じ。その一方で、ジャンル横断的に批評を行うというのは、やっぱり作品が発表された背景を看過するという弱点があるとは思う。

つまり、批評としては面白いけど、この手法を研究には輸入できないだろうな、という印象。(学問的にメディア・コンテンツを分析するのであれば、領域を問わず、作品や特定ジャンルの歴史的社会的背景は踏まえないといけないはず。)

そのうえで、一番納得がいかなかったのが、第6章にあったセカイ系批判。つまり、セカイ系とは”ポストモダン状況下で手っ取り早く、生きる意味や確実に価値があることを補給するため、あらかじめ癒されるべき傷を負った美少女が無条件で自分を必要としてほしい、という願望。”

であって、”自分で責任を取らず、その利益のみを享受する決断主義”という記述。私としては、”セカイ系”と呼ばれる作品に他者によるアイデンティティの承認というテーマが含まれていることは否定しないけど、自分で責任を取っていない、というのはちょっと違うのではないかと。

 そもそも、”あらかじめ癒されるべき傷を負った美少女が無条件で自分を必要としてほしい”とあるけど、たとえば、”最終兵器彼女”の作中では、ちゃんと主人公とヒロイン、その他の人物の相互行為が描かれているわけで、そこに無条件の承認なんてあるのかなぁ…と思ってしまう。 

とまあ、そんなことを雑駁ながら思いました。この本と先頃の斎藤氏の本を読んでいると、批評の存在意義についても思うところがあったのだけど、長くなるのでこの辺で。

2011.05.29 Sun l 感想-読書 l COM(0) TB(0) l top ▲
斎藤美奈子の「紅一点論」読了。特撮、アニメ、そして伝記を対象に登場する女性の作品中の役割などについて論じた著作。最近サブカル系の評論が恋しくなっていた&先輩に推薦されていたので読んでみた。

男の子むけ/女の子むけに対応する、科学技術/魔法、軍隊/身近なひとたち、軍事大国/恋愛立国などの構造。あるいは過去のSFに登場する女性キャラクターは看護や通信、雑用、そしてお色気要員でしかなかったことなどを明かにしている。

でもって特撮、アニメ、偉人の伝記が大人の世界のモデルになっているというわけだ。多分にツッコミたい箇所もいくつかあったが、一つの評論として実に面白く読めた。(自分が薄々感じていたことをはるか以前にやってくれていた。ありがたい。)

ちなみにこの手の評論って、はあ?、と言いたくなるものも多いのだが、この本については作者のシニカルな物言いにも関わらずあまり感じなかった。その理由の一つは作者が歴史的な変化に目配せしているからだろう。

つまるところ、筆者は、世界はたくさんの男の子と少しばかりの女の子から出来ている→それじゃいかん、もっと女性の物語と新しいヒロイン像を!と言いたいわけだけど、単に男性向けメディアを批判するだけじゃなく、自分なりに可能性を見出そうとしているところには好感をもてた。

…そして、そろそろ、魔法少女まどかマギカを論じた新書が大量生産されそうな予感…(もちろん、社会学徒としては当該の作品がオーディエンスにどのように消費されたのか(深読みも含めて)は関心があるわけだけど)。

しかし、この書籍は98年発行だけど、その後のアニメ界の動向を氏がどう見ているのかは気になるなぁ。セカイ系、日常系など新たなジャンルが続々と構築されたわけだけど、女性キャラの役割は広がっていく一方で、(主に男性の)視覚の対象としての女性像はむしろ増加しているような気もするし。

以上、Twitterでつぶやいた内容をそのまま掲載です。
2011.05.27 Fri l 感想-読書 l COM(0) TB(0) l top ▲
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。