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宇野常寛の「ゼロ年代の想像力」読了。本当はもう1回読みたいけど、他にやる仕事も多いので、現時点での感想でもメモっておく。とりあえず雑感としては→ジャンル横断的に色々知っているのはすごい、時代状況についての記述にはまあ納得、論点が多すぎでわかりにくい という感じ。

興味深かった点としては、(実証できるかは難しいけど)、1995年以前のアイデンティティは~する/~しないに依拠していたけど、それ以降は~である/でない ということに依拠するようになったという指摘。

そして、90年代後半は、社会的価値観があやふやな中で、”ひきこもる”という想像力が存在していたのが、00年代に入りサヴァイブ感にもとづく、バトルロワイヤル系の想像力に変わったという点。

この点を宇野氏はさまざまなメディアを横断しながら包括的に批評を行っている。この点はお見事という感じ。その一方で、ジャンル横断的に批評を行うというのは、やっぱり作品が発表された背景を看過するという弱点があるとは思う。

つまり、批評としては面白いけど、この手法を研究には輸入できないだろうな、という印象。(学問的にメディア・コンテンツを分析するのであれば、領域を問わず、作品や特定ジャンルの歴史的社会的背景は踏まえないといけないはず。)

そのうえで、一番納得がいかなかったのが、第6章にあったセカイ系批判。つまり、セカイ系とは”ポストモダン状況下で手っ取り早く、生きる意味や確実に価値があることを補給するため、あらかじめ癒されるべき傷を負った美少女が無条件で自分を必要としてほしい、という願望。”

であって、”自分で責任を取らず、その利益のみを享受する決断主義”という記述。私としては、”セカイ系”と呼ばれる作品に他者によるアイデンティティの承認というテーマが含まれていることは否定しないけど、自分で責任を取っていない、というのはちょっと違うのではないかと。

 そもそも、”あらかじめ癒されるべき傷を負った美少女が無条件で自分を必要としてほしい”とあるけど、たとえば、”最終兵器彼女”の作中では、ちゃんと主人公とヒロイン、その他の人物の相互行為が描かれているわけで、そこに無条件の承認なんてあるのかなぁ…と思ってしまう。 

とまあ、そんなことを雑駁ながら思いました。この本と先頃の斎藤氏の本を読んでいると、批評の存在意義についても思うところがあったのだけど、長くなるのでこの辺で。

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2011.05.29 Sun l 感想-読書 l COM(0) TB(0) l top ▲

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